一握りの土

みなさん

 

こんにちは

 

 

 

ヘンリー・ヴァン・ダイクの寓話に、『一握りの土』という、このようなお話があります。

 


川の土手に一握りの土があった。

 

その土には、いつかきっと幸せをつかむのだ、という夢があった。ところがある日、土は掘り出されて、陶器工場に運ばれ、思いもせぬ窮屈な型に押し込められ、身も震う高熱に焼かれたのだ。土は、これも幸せになる試練かと思って、
歯をくいしばって耐えた。

 

ところがその結果は、粗雑な作りで醜く赤茶けた、なんの取り柄もない平凡な植木鉢に仕上げられていた。

 

それからは、不満の日々となった。「こんな辱めを受けるとは。私はでき損なったに違いない。」土はそう思って、腹を立てていた。

 


どれだけの月日がたったのだろうか。

 

土はある日、大きな教会に運ばれた。

 

周囲は美しい花に囲まれ、喜びに満ちた音楽が流れてくる。

 

 

そして不思議なことには、この教会にくる人たちが決まって、自分を指差し、「美しい」「見事だ」と言って褒めるのだ。

 


土は己の醜さを知っているので、不審に思い、自分と同じような鉢に訊ねてみた。


もう一つの鉢は語ってくれた。

 

「お分かりにならないのですか。あなたは世界一見事な白いユリの花を宿してらっしゃるのですよ。その美しい花の根は、あなたの真ん中で育ったのではないですか」と。

 

 

なんの取り柄もないと思っていた自分でも、命を宿すことができ、美しく育てることができる。

 

そう気付かされた土は、生まれて初めて大きな喜びに包まれていた。というお話です。

さて、私たち人間もこの土と同じように、ついつい自分の欠点や弱点ばかりに目がいき、自分は価値が無いものだと思い込んでしまいがちです。

 

しかし、どれだけ欠点や弱点が多くとも、そんな自分をも生かそうとする働きが必ずあるのです。

 

大切なことは、その自分を生かそうとしている働きの中に、どのような祈りが込められているか、ということを自ら求めていくことであります。自分の中からどれほどのものが現れ出るか。

花も咲かせ、実も結ばせて、やってやってやり抜いていくところに、自分だけに与えられ、用意されていた本当の幸せが待っているのです。

 

本当の幸せ。

 

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澤庵和尚

こんにちは

 

今日もためになるお話を

 

澤庵和尚ご存じですか。

 

 

澤庵(たくあん)和尚は、江戸初期の臨済宗の僧であり、また「たくあん漬け」の公案者としても有名です。

その澤庵和尚が人生を上手に生き抜く秘訣を、このように言っておられます。

 

「この世に旅の客として来ている身であると思えば苦労はなくなる。望み通りの食事が出てきたら、良い御馳走を頂いたと思って感謝する。逆に望まぬような食事であっても、客の身であるからつくってくれた人を褒めて食べることができる。

 

夏の暑さも、冬の寒さも、客の身であるから辛抱することができる。

 

家族、親族も相客だと思えば、仲良く暮らして気持ち良く別れを告げることができる」と。

 


さすが澤庵和尚、面白い発想をされますね。

 

要するに、自分を含め出会う人すべてを客同士だと思えば、不平不満、争いごともなく、軽やかな人生をおくっていけるというわけです。

 

さて、ではなぜ客同士だと思えば、腹を立てたり、不足に思ったりせずにいられるのでしょうか。ここがとても肝心なところです。

 

それは、相手に頼ろうとする心がこちらに無くなるからなのです。


客同士なら、相手がこちらの思うようにしてくれなくても気になりませんし、少々のわがままにも目をつむることができるものです。

 

しかし、こちらが相手を頼っているのならそうはいきません。

 

相手がこちらの思うようにしてくれないことが不足に思え、腹を立てもすれば、悲しんだりもすることになるのです。


ある教えにこのようにあります。


『人の心は移り変わりやすいものである。その、人を頼りにするから、腹を立てたり物事を苦にしたりすることになる。人に向かう心を神に向けよ。』


家族であれ、友人であれ、本当に良い関係というのは、お互いに頼ろうとしないものです。

 


相手に頼ろうとしないで、むしろこちらが相手の頼りとなっていけるようにと願っていくのです。そういう人同士が、家族となり、友人となった時にはじめてそれが本当に頼りになるのだということを、忘れないようにしたいものです。

 

 

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